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自分自身を含め、あの家(にいる人)をよくしようという思いで作られた、 他人の人生にまで干渉したがる実に傲慢極まりない 家主のダウナー系日記。 アッパーになるための日記でもある。
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最近話題の?啓蒙厨について考えてみた。
ちなみに先に書いておくと、カテゴリー『見えない敵』という点であまり本気で考え込まないでくださいね!

まぁ、他人の人生にたやすく踏み込んで、知ったような口を利いて、頼みもしないアドバイスや強制をして悦に浸る輩ですね。
悦に浸っているか自覚してるかはともかく、「俺はいいこと言った」「アイツには俺の言ったようなことが必要だ」と勝手に思ってることですね。

こんなブログ書いてる時点で、私自身啓蒙厨の素質はあるのだが。

啓蒙厨を嫌うというのも考え物で、頭が凝り固まって同じ事しか考えられず、他人の意見を全部邪険に扱うような脳みそが固形物な人間になるんじゃないかとも思う。

けれど、いい加減、俺らはこの歳。自分のことくらい自分でやります。考えます。ダメなら「どうすりゃいいんだろう?」「俺もやってみたい」って聞きます。それほど興味がなければ終わります。

じゃあ、このブログは?
読むのは自由。誰が読んでるか不明。個人用のメモに近いってことで言い訳を。

一つ言うと、『啓蒙』『啓蒙厨の啓蒙』はまた違う。
『啓蒙』は「~してみるのもいいよ」というところを
『啓蒙厨の啓蒙』は「え?今時~もしてねえん?」みたいな。
上の啓蒙は、「君にはその権利や機会があるからやってみるのもいいんじゃない?君次第でいいことがあるかも」という選択肢の提案。
下の啓蒙は、「やることがいいこと」という完全な価値観の押し付け。行動の支配と強制。あげく、やっていない人に対する優越感(そもそも自分が上の立場)をひしひしと感じる。

また、
普通の啓蒙ならば、こちらが遠慮したりすると、「まぁ機会があればやってみようぜ」「そっちにはそっちの事情があるし」とあくまで相手を配慮する姿勢がある一方、
啓蒙厨の啓蒙は、こちらが遠慮すると、「ないわぁ……」「え……?」と、ありえないものを見る目で、まるで自分の正当な意見を否定する愚者のように見下し始める。

つうことで、啓蒙厨は不要と思っている。
啓蒙するのは個人の自由だが、言われる側が素直に「あぁ、この人いい事言ってくれてるわぁ」と思うかどうか考えたいですね。

特に、典型的な啓蒙厨の、自分で言ってることが正しいということを前提に押し付けてくることには注意したい。相手の立場を考えないのである。
例として、給与が少なく実家が貧乏で職場が近い人間などに「一人暮らしくらいしたら?」と言うのとかまさにそれ。
(一応書いておくと、私のこととは思ってません)
結局、その発言は「もっと(自分みたいに)苦労したら?」という言葉にあって、「一人暮らしをして苦労したら人間として成長する」という考えから来ていると思う。それが間違いとは思わない。正しい。
ただ、それを言うことが一概に正しいとは評しがたい。

また、細かい言葉狩りだが「一人暮らししてみるのもいいんじゃない?」とかではなく、「一人暮らしくらいしたら?」である。
「一人暮らし『くらい』したら?」というのは、それくらいして当然だろ、という意識が透けて見える。
自立してほしい子どもに言う保護者ならともかく、詳しい本人の事情を知らない知り合いに言われる筋合いは無いと感じるのも無理はない。一人暮らしをすることが年齢的に当然なのは誰でも分かっています。

実家は実家で親との付き合いなどの苦労がある。近所からは「○○さん」ではなく、常に「○○さんの息子さん」という目で見られている。自立できていない(人間として未熟)と評されるリスクは高い。昨今では一人暮らし経験の無い男とは結婚したくないという思想だって根付いてるはず。
あの家のような状況であっても、親にごちゃごちゃ言われるという状況はあるのだ。むしろ、あの家の状況だから、と言うべきかも知れない。
「家賃・光熱費・食費・その他通信費などを払い、職場から遠くなって車通勤になってまでする利点が無い」といったこともあるのは目に見えて分かる。実家暮らしは楽である。お金も溜まる。だが、苦労はあるのである。
もちろん、一人暮らしの苦労の方が多く、生活力につながるということは重々承知だが、そこまで考えてなお「一人暮らし『くらい』」と言えるのだろうか。
この実家の苦労自体を嫌がる人は、とっくに一人暮しをしていると思う。あるいは考えている。
前の記事で書いた認知的不協和による動かないことのストレスに対する解決策に通じる。

ま、この辺の話は、状況・個人の価値観など、ケースバイケース過ぎて話がまとまらないので割愛。


ただ、啓蒙と言っても、あくまで常識的な部分まで嫌悪するのは勘違いで。
例えば、
あの家では一時期「働けや」というのはタブー的になっていた気がする。と言うより、言うと雰囲気が悪くなるから自重の流れ。みたいな状態だったが、最近は普通になってる。これは啓蒙というより常識的な発言。言わない方が不自然。言われない方が不自然。

「言われんでも分かってる」というのは承知で、「働けや」というのは啓蒙厨というのではなく、ごくごく自然な友人、知り合い、家族に共通する発言、アドバイスと思う。「物を食べろや」「ちゃんと寝ろや」というのと同じ。
そういわれたとして、俺が働いていない立場なら「そんなの言われんでも分かってら。俺はこんなに苦しんでるのに・・・・・・誰も分かってくれねえなあ」と思うかなあ。と、勝手に気持ちを代弁させてもらう。

そこで細分化して分析すると、
『そんなの言われんでも分かってら』 ⇒ なら働くべき。正社員でなくてもアルバイトならある。バイトすら働かないこと、歳を取ることが再就職へのリスクを増しているということを自覚しているはず。
『俺はこんなに苦しんでいるのに』 ⇒ 前の記事の認知的不協和の解消ができていない、動かないことのストレス。動くストレスを取ったほうが後々はいいことくらい知っているはず。(ブラック企業につかまってトラウマを抱えるとかの稀な例外は除いて)
『誰も分かってくれねえなあ』 ⇒ ご存知の通り、誰も他人のことは分からない。自分のことは自分だけである。ついでに言うなら自分のことで行動するのも自分だけである。


常識と啓蒙の境界線は個人的な意見なんで、すでに啓蒙厨気味なのだが。

と、考えてる時期もありました。今ではどうでもいいですが、皆さん見えない敵と戦わないように。

さて、関連記事として、
このあたりは後日語る予定の類義語『正論厨』について追記をします。
また、先述した、「働け」と言うのは当たり前ということについても私自身書いておきながら疑問があるので、これも後日。
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