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自分自身を含め、あの家(にいる人)をよくしようという思いで作られた、 他人の人生にまで干渉したがる実に傲慢極まりない 家主のダウナー系日記。 アッパーになるための日記でもある。
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このブログで書かれているように、あぁ啓蒙厨、あぁ正論厨。ごちゃごちゃ言うなよ、というような神経質な内容が目立っているが、実際問題、コレも悪い傾向。
これじゃ、言葉狩りだ。

あの家の人と括られるように、あの家の人間以外の人間とのかかわりの薄さから価値観の膠着が起きていることばかりは否定できない。(少なくとも自分は)
他人の意見、耳の痛い意見にフィルターをかけ、自分の世界に閉じこもるという悪い見方もできる。年を取ると、それが間違いとも限らないと思っているが、二十代でそれはどうか。

もう少し柔らかく考えよう。そもそも、物事を『いい』『悪い』で考えすぎなんじゃないか、と。
適当に聞き流せばそれが一番自然なのだ。いちいち他人の意見に神経質になっていたら、それこそ自分みたいな神経症になる。
「またなんか言ってるわ」くらいで済ませばいいのだ。

そうしたら、ふいに自分の中で、「そういえばあの時、アイツが○○って言ってたな、実践してみるか」といった心境の変化があったりもする。
ただ、逆に、そのとき聞き流せても、後々「アイツ、あの時あんなこと言いやがって!鬱陶しい!」といった悪い心境の変化もあるんだけど。その悪い方にならないために、ある程度言葉狩りはしたいと思います。

自分はストレッサーを減らすための努力を最近惜しまないようにしているのであった。
ただ、ストレスを減らすというのは人間社会を避ける方向へ努力するという意味にもなりうる選択肢だから、どちらかというとどうストレスを発散するかに焦点を置いた方がいいのだが。
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昨今思うことは、買い物に関して金銭感覚が崩壊しているところ。

先日も、GAPで夏物Tシャツ2枚、シャツ1枚、10000円強ざっと買ったけど。まぁ後悔はしていないというかそれくらい普通、とも思うけど。昔の感覚の方が正常な気もする……。
「そんな服持ってるじゃん」とか「ユニクロでよくね?」とか「すぐ伸びるやろ」「どうせ首の汗が落とせなくなるのに……」とか今更ながら思うことがある。まぁ、物持ちはいいはず。
買い物どころかお金の消費は自己満足だから本人がよけりゃそれでいいとは思うが、本人が果たしてよいのか、と自問している状況。

数ヶ月前、背伸びして買ったポールスミスのバッグとかさ。ブランドもんに手を出すなよ、ってw
ま、後悔はしていないよ。
ただ、一度いいもの、いい服、いい生活に手を出すとランクを下げるのを渋るのが人間の基本的な性質。
ここら辺で歯止めを利かせた方がいいかなあ。多分。

家での夜食はそれほどないが、飲物の消費はある。実家に飲物があるというのに贅沢というのはあるが、この百円単位が案外馬鹿にならないかもしれない。
職場の飲物代もそうだな。贅沢かもしれない。
外食・交友費・趣味関連は問題なし。ケチるところではないし、使って後悔する部分はない。少食・酒飲めないという点での不公平感は感じるが言うても仕方ない。
ただ、本はやりすぎだなあ。積み過ぎのわりに買いすぎている。実際問題、積んでいる本だけで数万行っているのではなかろうか。数万くらいと思うかどうかは別として、ここから次々買い足すところがまた問題。

とか、前から思ってはいたけど、ちょっとリアルに先日の泡の件でイラ来てるので、お金をできるだけ倹約したいところなのである。あぁ、こうやって風俗にハマるのかぁ、こええ。とりあえずリベンジだけな。
ムラムラしてきたら、泡じゃなくてピンサロとか詳しい人に連れてってもらおう。
正論厨。

啓蒙厨とかぶる部分はあるが、こちらは一般的に見ても世間的に見ても正しいことばかり言い重ねてくるところが厄介。
「働け」「外へ出ろ」「一人暮らしして自立しろ」「結婚しろ」
命令形で書いたので印象悪いが、やんわりと言われることは多々ある。

これの何が悪い、って。

言われる側は知ってるから。知った上での今の状況だから。
でも、
それでも言い続けてくれることは、もはや『愛』や『友情』正論厨は大事にしましょう。
自分が正しくないことを注意してくれているのです。正しくないことがよくないこととは思いませんが、一般的な世間的に認められる人生を送っていくために、幸せになれるためには正しいことをするのが一番の近道だと思います。
『正しい』って主観じゃね?と思うかもしれないですが、啓蒙厨の発するようなことではなく、極々当たり前、社会的文化的人間的な正しさです。
私は何でも例外を引き合いに出して一概に言いくるめるのを嫌がって自分の意見を煙に巻く人間ですが、こういった正しさを否定することは『人それぞれ』『個人主義』の悪いところで、行き過ぎたところだ言い切りたいです。

このブログのわりに、文句なく認める流れ。珍しい!って思うかも。でも、正論厨は大切な存在です。啓蒙厨はウザいですが、正論厨は非常に大切な方なのであまり邪険に扱わないようにしたいですね。よき友達・家族です。


でも、ここからが家主的文句の流れ。
ダメな正論厨の注意点。

・「言われる側はこんなことも知らない、わかっていない」という完全な知識の見下し。
自分の子どもに言うならともかく、同年代なら正論な事くらい知ってます。周りは自分が思ってるより頭がいいです。

・「なんで正しいことをしないんだ、バカじゃないの」という人間的見下し。
人間、常に正しいことができる、しっかりしているような強い人間ばかりじゃありません。いじめられっ子に、「やられたら殴り返すくらいの気概を見せろ!」というようなもんです。これは極論ではなく、人それぞれ能力差や環境があるのです。

このあたりわかってない人間こそ厄介。

でも、限度ってあるし、ぬるま湯につからせると、ニート歴5年以上とか平気で行くんですよね。この辺は友人だけではどうにもならないんで。家庭環境、何より本人の問題なんで。

とりあえず、正論厨と揶揄されないために、自分としては上記の二項だけはしないよう心がけてはいるつもり。


と思ってた時期もありました。今はどうでもいいですが。
年休取って泡ってきた。

感想は、顔で笑って心で泣いています。
詳細は語りたくないが、またリベンジするという言葉だけ残しておこうと思う。
あと、薬のせいもあるだろ……。と言いたいけど……。
嬢のせいという説も無いだろうか……?いやぁ、こんなもんかぁ?

しかし、ちょんの間に行く前に泡っておいてよかった。金銭面はともかくな。ただ、泡の前にヘルスの方がよかったかもな・・・。
くそお!!!

私には配当型投資信託で毎月26000円配当が入っているのだ・・・!やろうと思えば、ほぼノーダメで毎月だって行ける!
・・・・・・詳しい人は御存じだろうが、ただの投資資金の切り崩しが配当なだけなので、投資資金が目減りしていく比較的愚かな投資(今の段階では『定期預金よりはマシ』というのが持論)ではあるのだが、それでもいい。それでもいいんや。

ZAKIOと皆で飛田新地行く計画(ZAKIOが消えてから勝手に言ってるだけだが)は、実現するにしても、自分としては今回の悔いを打開してからにしたい。
最近話題の?啓蒙厨について考えてみた。
ちなみに先に書いておくと、カテゴリー『見えない敵』という点であまり本気で考え込まないでくださいね!

まぁ、他人の人生にたやすく踏み込んで、知ったような口を利いて、頼みもしないアドバイスや強制をして悦に浸る輩ですね。
悦に浸っているか自覚してるかはともかく、「俺はいいこと言った」「アイツには俺の言ったようなことが必要だ」と勝手に思ってることですね。

こんなブログ書いてる時点で、私自身啓蒙厨の素質はあるのだが。

啓蒙厨を嫌うというのも考え物で、頭が凝り固まって同じ事しか考えられず、他人の意見を全部邪険に扱うような脳みそが固形物な人間になるんじゃないかとも思う。

けれど、いい加減、俺らはこの歳。自分のことくらい自分でやります。考えます。ダメなら「どうすりゃいいんだろう?」「俺もやってみたい」って聞きます。それほど興味がなければ終わります。

じゃあ、このブログは?
読むのは自由。誰が読んでるか不明。個人用のメモに近いってことで言い訳を。

一つ言うと、『啓蒙』『啓蒙厨の啓蒙』はまた違う。
『啓蒙』は「~してみるのもいいよ」というところを
『啓蒙厨の啓蒙』は「え?今時~もしてねえん?」みたいな。
上の啓蒙は、「君にはその権利や機会があるからやってみるのもいいんじゃない?君次第でいいことがあるかも」という選択肢の提案。
下の啓蒙は、「やることがいいこと」という完全な価値観の押し付け。行動の支配と強制。あげく、やっていない人に対する優越感(そもそも自分が上の立場)をひしひしと感じる。

また、
普通の啓蒙ならば、こちらが遠慮したりすると、「まぁ機会があればやってみようぜ」「そっちにはそっちの事情があるし」とあくまで相手を配慮する姿勢がある一方、
啓蒙厨の啓蒙は、こちらが遠慮すると、「ないわぁ……」「え……?」と、ありえないものを見る目で、まるで自分の正当な意見を否定する愚者のように見下し始める。

つうことで、啓蒙厨は不要と思っている。
啓蒙するのは個人の自由だが、言われる側が素直に「あぁ、この人いい事言ってくれてるわぁ」と思うかどうか考えたいですね。

特に、典型的な啓蒙厨の、自分で言ってることが正しいということを前提に押し付けてくることには注意したい。相手の立場を考えないのである。
例として、給与が少なく実家が貧乏で職場が近い人間などに「一人暮らしくらいしたら?」と言うのとかまさにそれ。
(一応書いておくと、私のこととは思ってません)
結局、その発言は「もっと(自分みたいに)苦労したら?」という言葉にあって、「一人暮らしをして苦労したら人間として成長する」という考えから来ていると思う。それが間違いとは思わない。正しい。
ただ、それを言うことが一概に正しいとは評しがたい。

また、細かい言葉狩りだが「一人暮らししてみるのもいいんじゃない?」とかではなく、「一人暮らしくらいしたら?」である。
「一人暮らし『くらい』したら?」というのは、それくらいして当然だろ、という意識が透けて見える。
自立してほしい子どもに言う保護者ならともかく、詳しい本人の事情を知らない知り合いに言われる筋合いは無いと感じるのも無理はない。一人暮らしをすることが年齢的に当然なのは誰でも分かっています。

実家は実家で親との付き合いなどの苦労がある。近所からは「○○さん」ではなく、常に「○○さんの息子さん」という目で見られている。自立できていない(人間として未熟)と評されるリスクは高い。昨今では一人暮らし経験の無い男とは結婚したくないという思想だって根付いてるはず。
あの家のような状況であっても、親にごちゃごちゃ言われるという状況はあるのだ。むしろ、あの家の状況だから、と言うべきかも知れない。
「家賃・光熱費・食費・その他通信費などを払い、職場から遠くなって車通勤になってまでする利点が無い」といったこともあるのは目に見えて分かる。実家暮らしは楽である。お金も溜まる。だが、苦労はあるのである。
もちろん、一人暮らしの苦労の方が多く、生活力につながるということは重々承知だが、そこまで考えてなお「一人暮らし『くらい』」と言えるのだろうか。
この実家の苦労自体を嫌がる人は、とっくに一人暮しをしていると思う。あるいは考えている。
前の記事で書いた認知的不協和による動かないことのストレスに対する解決策に通じる。

ま、この辺の話は、状況・個人の価値観など、ケースバイケース過ぎて話がまとまらないので割愛。


ただ、啓蒙と言っても、あくまで常識的な部分まで嫌悪するのは勘違いで。
例えば、
あの家では一時期「働けや」というのはタブー的になっていた気がする。と言うより、言うと雰囲気が悪くなるから自重の流れ。みたいな状態だったが、最近は普通になってる。これは啓蒙というより常識的な発言。言わない方が不自然。言われない方が不自然。

「言われんでも分かってる」というのは承知で、「働けや」というのは啓蒙厨というのではなく、ごくごく自然な友人、知り合い、家族に共通する発言、アドバイスと思う。「物を食べろや」「ちゃんと寝ろや」というのと同じ。
そういわれたとして、俺が働いていない立場なら「そんなの言われんでも分かってら。俺はこんなに苦しんでるのに・・・・・・誰も分かってくれねえなあ」と思うかなあ。と、勝手に気持ちを代弁させてもらう。

そこで細分化して分析すると、
『そんなの言われんでも分かってら』 ⇒ なら働くべき。正社員でなくてもアルバイトならある。バイトすら働かないこと、歳を取ることが再就職へのリスクを増しているということを自覚しているはず。
『俺はこんなに苦しんでいるのに』 ⇒ 前の記事の認知的不協和の解消ができていない、動かないことのストレス。動くストレスを取ったほうが後々はいいことくらい知っているはず。(ブラック企業につかまってトラウマを抱えるとかの稀な例外は除いて)
『誰も分かってくれねえなあ』 ⇒ ご存知の通り、誰も他人のことは分からない。自分のことは自分だけである。ついでに言うなら自分のことで行動するのも自分だけである。


常識と啓蒙の境界線は個人的な意見なんで、すでに啓蒙厨気味なのだが。

と、考えてる時期もありました。今ではどうでもいいですが、皆さん見えない敵と戦わないように。

さて、関連記事として、
このあたりは後日語る予定の類義語『正論厨』について追記をします。
また、先述した、「働け」と言うのは当たり前ということについても私自身書いておきながら疑問があるので、これも後日。
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